2017年4月24日月曜日

【翻訳】非常に控えめな推測;モスクワのミサイル防衛能力に関する


ミサイル防衛が常に論争の的となる概念である一つの理由は、核攻撃の際にもし仮にも使われた場合、防衛システムがどの程度よく機能するかを知ることが不可能というものである。
この本質的な不確実性は、ミサイル防衛についてのほぼ如何なる声明についても持ち出せるものである。もし、諸君らが、核戦力を構築する任務に就いていたならば、諸君らは、敵の防衛システムを突破するため、より多くの弾頭が必要であると容易に主張することが可能である。反対に、もし諸君がミサイル防衛に関する職務についていたら、諸君らは諸君らが提供する防衛システムは、"その日"のミサイル攻撃の脅威に対する適切な防護を提供することができると日々いうだろう。
この種の主張は、冷戦中には、そして今日でも―論争の両側において―非常に有効である。

ソビエトのミサイル防衛計画は、この議論について非常に非常に興味深く、非常に重要なデータ要素を提供している。我々は、ソビエトのシステムを打倒するために米国が必要であると考えたいくつかの概念を保有している。
Katayevアーカイブにより、我々は、今日、ソビエト当局がモスクワABMシステムの能力について記述された多くの資料を手にすることができる。ここに複製され、以下に翻訳されたアーカイブ内の一方の文書は、1985年当時の計画の簡潔な説明についてのものである。もう一方のアーカイブの文書は、いくつかの有用な背後関係を提供する。

ソビエトの文書が明確に示しているように、防衛システムは、非常に控えめな迎撃能力を提供すること以外求められていなかった。―現在配備されているA-135システムはわずか1から2発の弾道ミサイルを迎撃すると期待されているに過ぎない。文書は、この場合、弾道ミサイルの定義について少々曖昧であるが、それぞれ10発の弾頭を搭載した1から2発のMX-ICBM(訳者注:ピースキーパーICBM)を意味していないようではある。というより、1から2の「複合弾道目標(complex ballistic targets)」を示しているようである。これは、それぞれの目標がデコイや防衛網突破手段に囲まれた単一の弾頭である。蓋し、もしモスクワが非常に密集した目標になると想定されたならば、これら「複合弾道目標」の一部は、少数の弾頭を含むだろう(ここでは、核弾頭を搭載した迎撃弾が機能するとする。)A135の前任のA-35に与えられた能力は、ずっとより控えめなものであった。―「いずれかの方向からくる単一の弾道ミサイル」 ここでの「単一」はおそらく単に単弾頭ということを意味したのであろう。

モスクワのABMを突破するために使用される弾頭の数と比較したとき、これら迎撃ミサイルの数は、もちろん、部分的には興味深い。Hans kristensen Matthew Mckinzie Stan Norrisは、プロテクション・パラドックス論文中において、1968年、米国の戦争計画では、A-35システムを制圧するために、66発の弾頭が割り当てると推定した。これは、ところで、A-35システムが作戦状態になる10年以上前の計画である。彼らは、また、1989年において、米国は、約200発の弾頭をモスクワABM突破のために割り当てると推定した。そして、もちろん、英国とフランスは、もし彼らの弾道ミサイルがモスクワ周辺の防御を突破するとなれば、数百発の弾頭と洗練されたデコイが必要であると主張した。

過剰攻撃のほどは攻撃と防衛の関係性―防衛兵器の配備は圧倒的な攻撃兵器の増強を促進するだけである―を実際に示しているという結論に至りがちである。もちろん、そこには幾分かの真実は含まれるだろう。しかし、私の知見では現実は少々異なる―アメリカは弾頭の目標が不足するほどに多数の核弾頭を保有している。100発かその程度の弾頭をミサイル防衛制圧のため発射することは行うには理性的なことであり、そして、何人もミサイル防衛が実際に提供することのできる能力を微塵も気にかけないのである。

ともかく、ここには文章がある。それは”武装制限地域における義務についてのソビエト連邦の順守にかかわるアメリカの主張に関連した実情に関する覚書”と題されている。(Katayev papersの登録情報では、この文書は、”情報「武装削減地域におけるソビエト連邦の取り組みに関する義務に対する米国の主張についての実情」”であるように思われる。)

この覚書には日付が付されていないが、各種指標によると、1985年後半、恐らくジュネーブでの第1回レーガン—ゴルバチョフ会談に先立ち用意された。

画像は1985年に進んでいたソビエトのミサイル防衛計画の覚書の一部を示している。以下がその翻訳である。(イタリックの単語および数字は極秘文書に通常用いられる手書きで書かれたということである。)

(ミサイル防衛に関する)作業は1960年代中頃に開始された。MRP(電波工学省)によるTsNPO Vympelは、1979年までに戦闘可能状態となったA-35MモスクワABMシステムへと発展した。このシステムは、いくつかの方向から飛来する1発の弾道ミサイル及び西ドイツから飛来する最大6発のパーシング2型ミサイルに対する迎撃能力を提供する。
発展型A-135モスクワABMシステムへの置き換えは1987年に完了し、1から2発の現代的及び将来型ICBM及び最大35発のパーシング2型中距離弾道ミサイルの攻撃からの防護能力を提供する。A-135システムは、新型の索敵及び追尾レーダーであるDon-2N(Pushikino-Sofrino周辺に配備)を含む。1985715日の党中央委員会及び閣僚会議の決定に従い、モスクワABMシステムのさらなる改良―A-235システム(8から12の複合弾道ミサイル目標及び最大40のパーシング2型ミサイルを迎撃可能)―に向け作業が進行している。


このシステムの試験は1995年に予定されている。

同時に、単独で非常に価値のある対象を防衛するための短距離迎撃システムS-550(-1988年予定)およびICBMサイロ防衛のための”Sambo”システムが開発中である。

上記の画像にないが、覚書の次のページには以下のように書かれている。

S-550及び”Sambo”システムを除いたすべての開発計画はABM条約順守の下に行われている。だがS-550及び”Sambo”システムの開発は、条約には適合していない。

A-135に関するほとんどの作業は、計画通りに完了された。しかし、システムの試験(どちらかというとAmurとして知られる試作機の試験)19873月から10月にかけてSary-Shaganにおいて実施され、いくつかの深刻な作業が必要であることが発見された。国防省は、このシステムの配備を承認せず、工業部門へ送り返した。次の一連の試験は、1989年に実行され、A-135は、”試験的統合作戦”にふさわしいと1990年に判断された。(“統合”とは、ここでは工業部門の代表者が軍人とともにシステムを操作することを意味する。)A-135は、1995年まで戦闘任務につくことはなかった。

A-235システムは、完全に新規の計画ではなかった。このシステムにかかわる作業は1975年に開始された。1978年に承認された計画は、A-235がモスクワと”モスクワ産業地帯”の防衛提供し、”行政及び軍事の中心の鍵”の防衛を拡大するであろう更により大型のシステム―A-1035―に従属するとしていた。A-235計画は、近年復活したことが明らかになった。だが、計画の目的―モスクワ地域の防衛及び1から2のミサイルの迎撃―は大きく変更されたということは考えられない。

S-550及び”Sambo”に関する十分な情報は無い。私が言える限りでは、モスクワといったキーコマンド及び統制施設を防御するだろう従来の高速迎撃弾による終末段階防衛システムだったということである。おそらく、これは、S-255終末段階ミサイル防衛システム計画―これは1984年に終了し、ミサイルはA-135へと移されたと判明しているのであるが―における開発結果をもとにしていた。5k17レーダースステム―アメリカではフラットツインとして知られている―は、カムチャッカヘ移送された。(これは2005年から暫くかけて解体された。) S-550開発計画は1989年には、未だ実行されていたが、あらゆる指標によれば、開発作業は、1991年後には停止していた。

Samboは、いくつかの文書で”ミサイルサイロ及び指揮施設のアクティブディフェンス”として言及されている。不完全に爆発させるため、大量の金属片を飛来する弾頭へと発射するという考えにSamboは基づいているようである。同様のものが米国においてもMXサイロの防衛力を提供するなかで検討された。

1985年の計画は、Samboシステムが1987年中に完成されることを要求し、そして、テストもまた1989年中に実施されることを要求していた。しかしながら、1986年、この名前は文書から消滅し、また、二度と言及されることはなかった。Mozyrが金属片を同様に使用するか、それ以外の別の作動機構を利用するかは明らかではないものの、Samboは、恐らく、別の”アクティブ”サイロ防護システム―”Mozyr”―により置換されたと思われる。(Katayevの注記によると、1980年代初期、Samboは、別のアクティブシステム、”Aktiv”とともに言及されており、このAktivは、サイロを防護するため爆発物を利用するとされていた。) 1980年代後期に実行された飛行実験における弾頭迎撃にMozyrの開発が関係したといういくらかの情報がある。MilitaryRussia,ruは、何枚かのカムチャッカにおけるMozyr試験施設とみられるものの写真を掲載している。

現在、ロシア政府は、多額の資金を戦略部隊の近代化に費やす必要があると考えており、モスクワABMシステムは、明らかにオーバーホールを受けている。ロシアは、短距離迎撃弾のシステムの定例試験を実施し、そして、新型の迎撃ミサイル稼働していると明らかにした。2006年あたりに現役から退いた長距離迎撃弾を新たなミサイルに置き換える予定であるとの声明もある。Don-2Nレーダーの近代化に関する報告も存在する。いくつかの進行中の計画は、”Samolyot-M”のようなあいまいな名称で隠されている。(Alexsandr Stukalinに用意された、いくつかの計画に関する非常に興味深い概説がある。)

システムは、核弾頭搭載迎撃弾を利用することで知られているものの、あらゆる利用可能な証拠は、核弾頭は、(恐らく)安全な場所に保管されている迎撃ミサイルから取り外されていることを指名しているということを、私は注記しておかなければならない。通常弾頭による迎撃能力があるとする報告も存在するが、システムの完全な再設計抜きには、これが達成されるとは考え難い。加えてロシアの設計者と軍人は、信頼性の高い非核弾頭のミサイル防衛の建設の可能性について、極限までに懐疑的である。(実際、彼らは、米国は、ヒット・トゥー・キルが十分に機能しないと理解したとき、ミサイル防衛システムを核迎撃弾に転換するであろうと自身をもって予想している。)



※文中の画像およびリンクはソース元を参照のこと

2017年4月22日土曜日

「アメリカ空軍の歌」のwikipedia訳の問題について

「アメリカ空軍の歌」の日本語訳は日本語版wikipediaに掲載されている。しかし、この訳は必ずしも適切なものとは言えない。以下では、これについて問題個所を適宜上げつつ検討する。




Ⅰ Here they come zooming to meet our thunder,
敵が急上昇してきたぞ、我々の雷の一撃を見舞う時だ
wikipedia訳はもはや文法がめちゃくちゃである。to不定詞の主語は文中に書かれていないか、また、特殊な状況でない限り文の主語と一致する。よってⅠの主語は、theyであるからto meetの主語もまたtheyになるのである。よって次のような訳が適切である。

Ⅰ敵が我らの雷(飛行機の比喩)に立ち向かうため急上昇してきたぞ




Ⅱ Minds of men fashioned a crate of thunder,
Ⅲ Sent it high into the blue
雷を集めて創った我々の魂を、青空高く送り届けよう
wikipedia訳によれば、この文の主語(S)Mindsであり、of menfashioned以下がMindsを修飾する形をとる。また動詞(V)sentである。sentは、sendの視覚方言であるから、意味上はsendとなる。さて、wikipedia訳で問題が生じるのは、Ⅱを関係代名詞的に訳したことによりsentのあとのitminds of以下と対応する形になる。しかし、mindsは複数形である以上、themになるはずであり、明らかな英文法上の間違いとなる。
であるからこの歌詞は、Minds of menSfashionedVとする文とSendで始まる命令文の二文で構成されることとなる。英文法上正しい形に直せば以下のようになる。

Ⅱ我らの心は雷の箱(飛行機の比喩)をつくった
Ⅲこれを大空高く送り届けよう




Ⅳ Hands of men blasted the world asunder,
Ⅴ How they live God only knew!
世界を圧倒する破壊力を備えた一握りの者たち、その生きざまは神のみぞ知る
blastに備えるという意味はなく、また、blastは第四文型をとることはないのでHands of menを就職することはできない。そのため、これについても文法上の誤りとなる。であるから、正しい訳は以下のようになる。

Ⅳ男たちの腕前は世界を木端微塵にするがごとく震わる
Ⅴ彼らの生きざまは神のみぞ知る


Here's a toast to the host of those
Who love the vastness of the sky,
さあ乾杯だ、大空を愛する兄弟たちを祝って
ここではvastness of the skyが単に空を指しているのか、それとも、空の広さを指しているのかどちらの意味となるかが問題となる。しかし、前述のものと比べ断定しがたいため、あくまで逐語的に訳した場合には以下のようになる。

さあ乾杯だ、空の広さを愛する兄弟たちを祝って



Ⅶ To a friend we send a message
     Of his brother men who fly.
空を翔ける我らが兄弟たちへ伝えよう
wikipedia訳ではa friendhis brother menが同格の関係となっている。しかし、これでは1人でしかないfriendが複数のbrother menから構成されることになるため非常におぞましいこととなる。そのため、of以下はa messageを就職することが妥当であろう。これを踏まえて訳すと次のようになる。

Ⅶ友に伝えよう、空駆ける兄弟たちの言葉(言伝)



Ⅷ Then down we roar to score the rainbow's pot of gold.
黄金に輝く虹の光を心に刻むため、声高らかに歌おう
まず第一にscoreが言葉等を心に刻むという用法で使われるとき、その意味はマイナスの意味となるため、歌詞の内容に即していない。次にthe rainbow’s pot of goldの問題である。いくらなんでも直訳すぎでないだろうか。
Pot of gold at the end of the rainbowで「夢のような大金(幸運、報酬etc)」や「見果てぬ夢」などという意味となる。そもそも、この意味が導き出される語源は、虹の先端と地面が接する所に黄金の入ったつぼがあるという伝説であるから、ネイティブスピーカーにとっては単にrainbow’s pot of the goldという形でも、もとのpot of gold at the end of the rainbowという形が導きだせるのでないか。とならば、自動的にscoreは得るという意味となる。これを加味して訳せば次のようになる。

ならば、声高らかに歌い上げよう、見果てぬ夢を得るために
(補足:前文のmessageを汲むなら「歌う」というより「騒ぎ立てる」や「声を張り上げる」という訳語のほうが適切かもしれない)


参照(2017/4月22日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ空軍の歌

2017年4月17日月曜日

「グレートゲーム再考―中央アジアにとっての帝国間競争の意味―」感想

日本国際政治学会 2010 年度研究大会部会 4 地域からの帝国論―比較史と現在
 宇山 智彦「グレートゲーム再考―中央アジアにとっての帝国間競争の意味―」
http://src-home.slav.hokudai.ac.jp/rp/group_04/achievements/files/20101029_uyama.pdf

 

 グレートゲームは今や狭義の近代中央アジアにおける英露の競争から、中央アジアをめぐる諸国の権力闘争を示す政治的レトリックとなっている。このレトリックにおいては、プレイヤーを各大国
とし、小国を駒として戦う”チェス”として国際政治情勢が表現される。これはもちろん、グレートゲームがチェスの用語に由来していることなのであるためである。つまり、グレートゲームにおいては、小国は意思を持たない駒として認識されるのである。しかし、現実はそうではなく、小国も意思をもって自己の利益のために行動しているということを本報告は示している。
 本報告は、前述のようにグレートゲームというレトリックの中で単なる駒として扱われている小国に焦点を当て彼らが英露のみならず、清も加えた近代の清英露対立の中で如何に彼らが行動し、いかなる結果となったかを簡潔に示している。本報告において、もっとも着目すべき点はグレートゲームにおいて決定された中央アジアの支配環境が現在に至るまで影響しているということを示している点、帝国が現地勢力を利用するのみならず、現地勢力に帝国が利用されていることを示す点の二点である。これは、本報告が主題としたグレートゲームのみならず、そのほかの環境にも応用できる可能性のあるものである。これについて次に検討していく。
 まず、前者について検討する。グレートゲームの舞台となった中央アジアは、当時清朝が占領した東トルキスタンを除きすべてが独立国になっている。これは報告中で清朝において現地エリートが育成されなかったため、また、清朝が日本との関係において主権を強めていったこととされている。ここで示される対比は、現在もくすぶる民族独立の問題についての歴史的解釈に新しいものを加えるのかもしれない。
 次に後者、帝国の利用について検討する。小国、現地勢力が自己の利益のために大国を闘争へと引き込んでいくという構図は、現在もみられる。まさに今のシリア情勢がそれにあたるだろう。自由シリア軍などの現地勢力が介入に消極的な米国を段階的に引き込んでいる。シリア情勢も大国のゲームという一面的なものでしか捉えられていない面もあるが、各現地勢力がアクターとして大国を巻き込んでいるという面もまた存在する。本報告は、このような観点について歴史的な根拠を示していえるのかもしれない。

 最後に、中央アジアをチェス盤に見立て、チェスの用語からとられたグレートゲームがそうであったように、冷戦期の米ソ対立における小国や現地勢力を駒とみる観点もまた、現地勢力は単なる駒で無いかもしれないという可能性を本報告は、歴史的根拠をもって示しているのかもしれない。