2017年2月24日金曜日

【翻訳】アメリカ陸軍戦車開発史 1925-1940年

ARMOR 1990年5月6月号、 125周年記念号
コンラッド・F・シュライアー=ジュニア(Konrad F. Schreier Jr.)著
http://www.benning.army.mil/armor/eARMOR/content/Historical/pdf/Schreier.pdf

現在のアメリカ陸軍の戦車は実にすばらしい。しかし、ごく少数のものしかこれらの戦車が1925年から1940年の開発にどれほど負うところがあるかを認識していない。1925年以前、設計者たちは、第一次世界大戦時から仕事を続けていたが、しかし、そののちすべての戦車開発計画は見直されてしまう。次の15年間にわたり、陸軍は、今日の戦車の一部である機能を開発した。

計画は、1992年のロックアイランド工廠によるT1中戦車から始まる。これは、22トンの車両で200馬力エンジンにより稼働し、時速22マイル―当時としては非常に高速―で走行することができた。砲塔には、中速57mm砲が搭載され、キューポラには30口径機関銃が据え付けられた。T1中戦車は、第維持世界大戦の設計を継ぐ最後の戦車であったが、大幅に改良された車両であった。使用されつつ、幾多の改修の後、1935年ごろに退役した。

次のモデルは、カニンガム社、自動車会社によって製作された。1927年のT1軽戦車は105馬力エンジンで稼働する7.5トンの車両であり、この105馬力エンジンにより時速20マイルで走行することができた。エンジンは前部に配置され、操縦席は後部に配置された。砲塔には30口径機関銃が搭載された。砲塔と一部の装甲は。リベット付けではなく溶接されていた。T1のシャーシ三つのバリエーションは自走砲、武器輸送車(砲兵牽引車?)、輸送実験車両のために制作された。

1928年にカニンガム社は四種の改良型T1し、T1E1とよばれた。それらの重量は8.9トンであり、そして時速22マイルの速度与える132馬力エンジンを搭載している。多くのT1E1のシャーシが自走砲とそのほかの実験車両のために制作された。1929年には、一両のT1E2がいくつか変更を行われたがT1E1と同馬力同速度であった。これらのT1は、非常に似通っており、1930年代を通して実験車両として十分に使用された。

1930年、カニンガム社は、重量15トンで320馬力エンジンの搭載し、最高時速25マイルのT2中戦車を制作した。これはT1軽戦車を基本的に拡大したものだった。サスペンションとトラックアセンブリ(軌道組み立て体)を含めたT2戦車の多くの部品がT1軽戦車のそれらと同じであった。T2中戦車は高速37mm実験砲を搭載していた。これらのすべての車両と同様にT2中戦車は、1930年代半ばに退役するまで多くの改修をうけた。

1930年の初め、三両のT1が完全にほぼ完全に新しい車両として改造された。T1は新たな動力伝達軸を持ち、砲塔にはT1中戦車と同じ37mm砲が搭載されていた。1932年にこのうち一両が英国ヴィッカース=アームストロングサスペンションの試験のためにT1E4として改造された。それ以外、すなわちT1E5は、その他の構成部品を試験するために使われた。そして最後に改造されたもの、つまりT1E6は、エンジンのテストに使用された。

これら今まで言及したすべての車両が成功したと考えられる一方で、陸軍は、いくつかのヨーロッパの戦車を試験することを望んだ。陸軍は、英国のヴィッカース=アームストロング社から”ヴィッカース6トン戦車”とカーデン・ロード豆戦車を借り入れた。これらは第一次大戦以来、陸軍が試験した始めての外国製戦車であり、そして、いくつかのよい特徴を持っていたものの、陸軍は、これら豆戦車を不適格とした。多くの点において、これら豆戦車は、陸軍のもつ試作車両ほどよくなかったのだ。1931年に陸軍は、かのJ・ウォルター=クリスティーの設計、製作した一群の戦車を購入した。クリスティーは当時66歳で第一次世界大戦前の前輪駆動レースカー、馬牽消防車を自動車するための前輪駆動への転換、そして彼の第一次世界大戦期の試作戦車と試作自走砲の設計で有名であった。

クリスティーは、いわゆる「コンパーチブルタンク」を開発し、そして、この戦車は、1928年には戦車自体の履帯または、転輪にて走行することができたが、しかし、この時代の何年先も行っていたと感じていたので、彼は、この記憶すべき革新を、「1940年式」と呼んだ。1940年式は、一切の武装そして砲塔を搭載していなかったため、完全な戦車とは呼べないが、しかし、履帯では時速45マイル、転輪では時速70マイルで走行することができた驚くべき車両だったのだ!これは、わずか8.6トンの重量と338馬力のリバティーエンジンによって動力が供給されていたため可能であった。Christie's Wheeled Track Layer 社は、一両の1940年式しか製造しなかったものの、試験において良い成績をおさめたので、陸軍は、完全な型を取得することを決定した。陸軍は、再設計された7両のクリスティー戦車を1931年に購入した。戦車を歩兵科に限定した連邦法に従い、三両が歩兵中戦車T3、そしてほかの四両はT1騎兵戦闘車に振り分けられたが、しかし、それらは実質的に同一であった。これらは、10トンの重量で338馬力リバティーエンジンを搭載している。T1とT3は、クリスティーのコンパーチブル主義を具現化しており、そして、転輪でも履帯でも走行することができた。T1とT3は、クリスティー独自のコイルスプリングサスペンションを使用していた。クリスティーは、砲システムを設計していなかったため、陸軍は、砲塔を製造しなければならなかった。クリスティー戦車は、物質的にしか十分でなかった。戦車の複雑な路上装輪走行システム即ち、ステリング履帯システムには問題があった。チェインドライブもそうであった。そのサスペンション構成をもって、それぞれのクリスティー戦車の独立転輪は、車両の両端のから端回りまでおよんでおり、これにより内部構造が複雑化し、そして、砲塔を装備することが難しかった。履帯の寿命、その他の同時代の戦車のように乏しく、たったの500マイル程度であった。そして、クリスティー戦車では、暴力的な機動において、履帯が外れがちであった。

ロックアイランド工廠は、多くのクリスティーの構想をT2 Combat Carで使用した。この8.5トンの車両は、新しい動力源を採用した。165馬力コンティネンタル星形空冷エンジンだ。この戦車は、T2E1として1933年に大規模に改造されたものだが、それは不成功に終わった車両であった。同種のT3 Combat Carは1932年に設計されたが、T2の失敗のため、量産されることはなかった。

1932年に、当時は目立たず進行していたものの、戦車の履帯能力にこれまで以上の革命を起こす履帯の開発があった。それは、ゴムブッシュ履帯であった。最初の戦車が製造されてから、「乾式ピン」履帯、キャタピー式トラクターのため開発されたもの、を使用してきた。泥がトラックピンブッシュに入り、そしてピンを摩耗させるため、乾式ピン履帯は、非常に短い寿命―500マイルに満たない―しかもたなかった。T1ゴムブッシュ履帯は、1932年に陸軍とTimken ベアリング社によって開発され、乾式ピンを置き換えるため、柔軟性のあるゴムブッシュが使用されていた。最初のゴムブッシュ履帯であっても、1000マイル以上を走行した。これらは、アメリカ陸軍の履帯設計において未だに基本的な要素となっている。

1932年に経験した第二の戦車におけるイノベーションは、ボリュートスプリング(竹の子バネ)サスペンションだ。これは、時計バネのように金属棒が緊張して輪状にされている。一方の末端は、輪の内側に、もう一方は外側にある。ボリュートスプリングの大きな利点は、非常に頑丈であり、そして存在する最も力強く小さなスプリングであることだ。であるから、ボリュートスプリングは、戦車のサスペンションシステムにおいて可能な限り最小の空間、リーフスプリング、コイルスプリング、トーションバースプリングが要求するものの一部、を占めるに過ぎなかった。

新しい構成部品が試験中であり、開発中であっても、陸軍は、クリスティーの設計もまた研究していた。1933年」、ロックアイランド工廠は、T1 Combat Car/T3中戦車を再設計した。陸軍は、クリスティーの構想は、利点を持つものの、完全からは程遠いと考えていた。陸軍は、クリスティーの構想の問題点のため、それらに関するいくつか他の開発ラインを遂行することを決定した。これは、クリスティー戦車で第二次世界大戦を経験する英国とロシアの両方の問題の視点からすれば非常に先見の明があったと後に判明した。

当時、後に軍需品部少将となるGladeon M.Barnesはトーションバーサスペンションの特許を取得した。トーションバーサスペンションは、車体側面の代わりに車体下部の空間を使用する。1934年陸軍は、クリスティー式を再設計し、そして、アメリカンラフランス社―火砲牽引車製造業者―に一両のT3E4中戦車の製造をさせた。大幅な改良があったが、T3E4は、同時期の試作車両ほどよくはなかった。まもなく、この計画が進行中の後、ロックアイランド工廠は、 T4中戦車―13トンでT4 Combat Car になるはずであったがcombat carに許される制限より重かった―を製造した。T4中戦車は、後にT4E1として改造され車体上部に特別な砲郭を試験的に使用したが、しかし、T4E1もT3E4クリスティー中戦車も非常に成功したとは考えられなかった。

1934年ロックアイランド工廠は、T2軽戦車―37mm砲搭載、後部エンジン、前部駆動―も生産した。重量は6.5トンであり、120馬力エンジンは、約時速25マイルでの走行を可能にした。ビッカース・アームストロング6トン戦車の試用のサスペンションを使用した。T2軽戦車は同時期に作られた他の設計に大きく水をあけた非常によい設計であった。

1934年にロックアイランド工廠にて製造された戦車は、第二次世界大戦において運用されたアメリカ陸軍の戦車の開発に対して多大なる影響を与えた。この二両のうち片方はT2E1軽戦車、もう一方は実際に同一のT5 Combat Carである。これらの車両は、後部配置、前輪駆動空冷星形航空機エンジン、ボリュートスプリングサスペンション、ゴムブッシュ長寿命履帯を初めて組み合わせた。これらの車両は、実に素晴らしい成功を収めたのだ!時速45マイルで走行することができ、これにより、クリスティーの設計した転換能力(装輪装甲能力)は不必要となった。これらの車両は実に素晴らしい機動力を持ったのだ。履帯寿命は1500マイルを超えると判明し、そして、暴力的な機動でも外れなかった。これらの車両の総合性能は、同時代の他のいかなる戦車でも耳にすることはなかった。

1936年、改良型双砲塔型であるT2E1軽戦車が制式化され、ロックアイランド工廠にてM2軽戦車として量産に移った。これに合わせて、単一砲塔モデルが制式化され、M1 Combat Carとして量産に入った。これらは、砲塔配置を除いて同一であり、第二次世界大戦中に非常に活躍した最初の軽戦車シリーズであった。M2軽戦車とM1 Combat Carが制式化されるまで、陸軍の倉庫に未だに制式化されて存在していた戦車は、第一次世界大戦式の戦車、フランスのルノー1917年式6トン戦車、英国のマークⅧであった。陸軍は、未だにそれらを使用しており、陸軍の一部の試作車両とともに戦車部隊を訓練、教育していたのだ!

また別の試作車両は、ロックアイランド工廠にて1934年につくられ、同じ新しい設計特徴を共有していた。T3軽戦車と呼ばれたこの車両は、無砲塔の3トン戦車でよく動作したものの、しかし、陸軍がなんの設計要求も持たなかったため、研究されることはなかった。

陸軍は、未だにクリテスティーのコンパーチブルドライブ構想には、利点があると考えており、そのため、1936年には、最後のモデルが設計された。T6 Combat Carである。しかしながら、他の新規設計の成功により、T6 Combat Carは、製造されることはなかった。しかしながら、最後のクリスティー戦車は製造された。1936年から1937年にかけて、ロックアイランド工廠は、M1 Combat Carの車体を取り外し、これをクリスティーコンパーチブルサスペンションに搭載した。これがT7 Combat Carであった。しかし、試験は、新規生産の形式の戦車に劣ることを証明した。1939年アメリカ陸軍は、生産に移っていたより良い戦車を選択し、クリスティー式の設計を破棄した。

陸軍は、―制式化された軽戦車とCombat Carを所有していたので―中戦車を必要とし、そして、1937年にロックアイランド工廠は、T5フェイズ1中戦車を設計し、製造した。その駆動軸は、M2軽戦車とM1 Combat Carに由来し、後部エンジン、前輪駆動、ボリュートスプリングサスペンション、ゴムブッシュ履帯を備えていた。加えて、37mm砲を砲塔に備え30口径機関銃の砲座を車体の四方に搭載していた。T5フェイズ1中戦車は350馬力星形空冷航空機用エンジンを搭載し、時速26マイル以上での走行が可能であった。そ5のサスペンションと履帯部品は新しい軽戦車とCombat Carのもとの同様のものであった。T5フェイズ1中戦車は成功を収めた。

後期の派生型の中戦車には、T5フェイズ2とT5フェイズ3―T5フェイズ3はより広い、改良型ボリュートスプリングサスペンションとゴムブッシュ履帯を装備している―が含まれる。1939年には、この設計は制式化され、M2中戦車として量産に移った。

1939年に、量産型M2中戦車は、発動機としてのGuiberson空冷星形ディーゼルエンジンを試験するためにしようされた。この型は、T5E1と呼ばれた。

1939年までにロックアイランド工廠は、M2中戦車を生産しており、そして、T2E2の改良を行っていた。T2E2は、低い車体とM2の動力伝達軸を使用していたが、その独特な車体上部に機関銃塔、75mm”パックホイザー”M116榴弾砲を右前面に、機関銃座を車体後部の角二ヶ所に装備していた。これは、大口径砲を車体に搭載する試験のための車両に過ぎなかった。大口径砲を車体に搭載する試みは十分に機能すると判明した。

1939年9月、第二次世界大戦がはじまると、二次大戦から、陸軍は戦車の必要性に対する全くもって新しい洞察を得た。もちろん、陸軍は、新型制式戦車の生産と改良に集中していた。1940年まで陸軍は、近い将来求められる戦車を設計、定義することに手中していた。結果として、陸軍は、前例のないことをやってのけた。新たな戦車は、試作車両を意味するTの文字を一度も振られることなく生産へと移されたのだ。これらの車両は、M3中戦車(“リー”または”グラント”)で、75mm砲を右車体前面に、37mm砲を砲塔に装備している。この戦車は1940年に設計され、そして第二次世界大戦の西側連合国戦車で初めて75mm砲を装備した戦車であった。イギリスが、北アフリカ戦線にM3中戦車を投入した際、アメリカ陸軍の戦車開発計画は、もはや時代遅れであることが判明した。

M3中戦車が量産を急がれているときでさえ、陸軍は、T6中戦車、M3中戦車の低い車体、動力伝達軸、サンスペンション、履帯を使用するが、75mm主砲を完全な砲塔に装備している。T6、が制式化され、1941年に大量生産が命じられた時、T6は、かの著名なM4中戦車”シャーマン”となり、このM4中戦車シャーマンは、未だ現役にある唯一の第二次世界大戦世代の戦車なのだ!

その他のあまり成功しなかった1940年にはじまった開発計画はT1超重戦車―現在の標準ですらある60トンの車体重量に、3インチ高速対空砲を砲塔に装備した戦車―である。T1は、1000馬力のエンジンを持ち、時速25マイルで走行した。

1941年にT1は、M6重戦車として制式化され、生産が始まったものの、この当時のもっとも力強い戦車は、海上輸送と欧州の道路と橋での使用における問題から、一度も先頭には投入されなかった。1941年。陸軍は、新たに、37mm砲を方途に装備したM3軽戦車の量産も開始した。M3軽戦車は、M2軽戦車の装甲と武装の向上型である。最後の非コンパーチブル・クリスティー戦車も、T49GMCとして製作されたが、成功しなかった。1940年に始まった設計を基礎としたT67GMCが1942年に製作された。これは、砲塔搭載砲と1933年に発明されたトーションバーサスペンションを使用したアメリカ陸軍最初の装甲車両である。1934年に導入され、非常に成功したので、未だに使われているアメリカ陸軍のボリュートサスペンションが一切の車体内容量を占めないにも関わらず、厚く車体内容量を占めるトーションバーサスペンションにより置き換えられたのは興味深い話だ。

トーションバーサスペンションを使用した最初の量産車両は、T67から発展し、1943年に導入された76.mmGMC(”ヘルキャット”)である。

トーションバーサスペンションは、また、後のM24軽戦車(“チャーフィー”)とM26重戦車(のちのM26中戦車”パーシング”)であった。M60に至るアメリカ陸軍の戦車は、M26パーシングから直接的に開発されたのだ。

1932年に導入されたゴムブッシュ履帯は、未だに使用されている。第二次世界大戦ではゴムブッシュ履帯は交換までに、5000マイルほど走った。そして今にいたるまで、ゴムブッシュ履帯よりよいものはないのだ。